「本願と縁起の関係について」(2016/08/30)に加筆しました。(※加筆は枠で囲んである箇所)

 「本願」は我々を救わんとする願いであった。そして、その本願は阿弥陀如来成仏によって、成就している願いである。すなわち、我々は既に本願によって救われていることになる。そして、上記の考察の結果、「縁起=本願」という図式が成立している故に、「縁起」もまた、我々を救わんとする働きであり、そして、既に我々を救っている働きである。このことは、本願は既に成就していても、本願は我々を救う慈悲の活動として今もなお働いているということである。すなわち「願いが成就しても尚且つ我々に願いとして働いている働き」が本願である。従って我々の存在は、本願によって願われている存在であると同時に、既に本願の願いが成就した世界にいる存在でもある。

  では、縁起が以上のように我々を救わんとする働きであるとは、いかなることなのであろうか。まず、本願が我々を救わんとする願いであるとは、我々に対して「一如に目覚めさせたい」という願いである。なぜならば、仏教における救いとは、一如に目覚めていない我々を、一如に目覚めさせることにあるからである。従って、縁起が我々を救わんとする働きであるとは、我々に対して「一如に目覚めさせたい」という働きにほかならない。

 

  *****なぜ一如に目覚めることが我々の救いなのかと言えば、それは以下の通りである。一如とは我がものということを許さない不二、絶対平等の世界だから、そこは我執を持ちながらも、それに振り回されることのない世界である。従って、一如に目覚めるならば、この身がある限り我執を持ち続けても、それに振り回される生活から解放されるのである。

 

 一方、この「一如に目覚めさせたい」という働きが、既に成就し我々を救っているとはいかなることなのであろうか。それは阿弥陀如来より見た我々の存在性、つまりそれは、我々は既に一如であるということを示す事柄である。

 もちろん、我々の現実の生き方は、一如に目覚めていない生き方であるから、我々にとって、本願は今もなお我々に働き続けている未成就の願いである。しかし、信心を得たならば、本願は既に我々の上に成就されていた願いであったことに気づくのである。すなわち、縁起は我々に「一如に目覚めさせたい」という働きとして働いているが、しかし一方、縁起は我々を一如にしている(「願いが成就しても尚且つ我々に願いとして働いている働き」)ということである。

 我々は本来縁起なる存在であるのに、我々には我執があり、その我執は縁起の働きに反するあり方である。従って、この我執と縁起の関係を、我執からしてみれば、「我執は縁起の働きの前に照らし出された時、それは縁起の働きによってその自己中心性(反縁起性)が照らし出される」ということである。一方、この我執と縁起の関係を、縁起からしてみれば、「縁起は我々の我執を照らし出す時、それはその我執の自己中心性(反縁起性)をあまねく照らし出す働きである」と言える。そして、このような縁起の働きは、我々をはじめ、全てのものの上に働いているのである。

 ところで、縁起が「我々の我執を照らし出す働きとして働いている」といっても、これは決して「私たちは物事に対しては我慢せよ、と働いている」ということではない。また、例えば「震災などの上にも本願の働きを見よ」ということでもない。なぜならば、個々の事象は個々人においてその捉え方が異なるため、もし、個々の事象において本願を見ようとするならば、人によって本願の捉え方は異なることになる。つまり、人は本願を感じることが出来る人、出来ない人に分かれてしまう。もちろん、本願は全ての事象に働いているので、個々の事象において本願(仏の慈悲)は働いている。そして個々の事象に本願(仏の慈悲)を見ることは、個人の信仰においてはあり得ることである。例えば、亡き幼子に対して、平安中期の女性歌人和泉式部は「夢の世に あだにはかなき 身を知れと 教えて帰る 子は知識なり」と詠っていることなどは、ある特定の事象に仏の慈悲を見たものである。そこで全ての人々に対して本願の働きを示す手立てとして、阿弥陀如来は我々に対して『南無阿弥陀仏』という名号を示されたのである。

 なお、ここで「本願(仏の慈悲)」を原因、「震災」をその結果とする見方、つまり、「本願(仏の慈悲)が、我々にこの世の無常を知らしめるために、震災を引き起こした。」「震災は仏様の本願(慈悲)の現れ」という見方は、本願の働きを正しく捉えていない。そうではなくて、「震災にも阿弥陀如来の本願(慈悲)は及んでいる。」という見方で捉えるべきである。この世の出来事は、阿弥陀如来の本願(慈悲)の中で起きてはいるが、物事は阿弥陀如来の本願(慈悲)が原因となって起きているのではない。阿弥陀如来の本願(慈悲)とは縁起の働きである。そして縁起の働きとは「物事の関係性(原因によって結果があるということ)を生み出す働き」であり、その働きは、「我々の我執(自己中心性)を照らし出し、そして打ち破る働き」でもある。そのような働きで満たされた世界において、物事は原因によって生じ、原因によって滅している。したがって、我々の我執(自己中心性)を照らし出し、そして打ち破るための本願(慈悲)は、それぞれの物事に及んではいるが、それらの原因になっているのではないのである。

 これを水槽の中の金魚に例えれば、水槽の中の金魚は、水が張られた水槽の中で餌をもらいながら生きている。水槽の中の水は、水槽の中で行き渡っていない箇所はなく、水槽全体に行き渡っている。さらにその水は、金魚や金魚の餌にも行き渡っている。そしてその水があるおかげで、餌は水中の中に漂うことが出来るが、その水によって金魚に餌が与えられているわけではないのである。このとき、水槽の中の水とは阿弥陀如来の本願(慈悲)を指し、金魚は我々であり、餌は物事の例えである。

 さて、本願は個々の事象をならしめている根本の働きであり、それは言葉を超えた世界である。そしてその働きは「あらゆる物事に対して我々は自己中心的に活動しており、そのことに目覚めさせたい、と働いている」ということであり、この自己中心性(反縁起性)に目覚めることは、その対極にある一如に目覚めることへとつながる。このように、本願とは「汝の自己中心性(反縁起性)に目覚めさせたい」という働きを本質とした願いであり、その願いのもとに我々をはじめ、全てのものは存在していると言える。しかし、我々は、「この本願が全てのものの上に働いているということ」、つまりは「縁起が我々の自己中心性を照らし出そうとして働いている」ということを感じながら生きることは出来ない。なぜならば、縁起は本来言葉で把握することが出来ない世界における働きだからである。そこで、阿弥陀如来は『南無阿弥陀仏』という名号として、その本願の働きを我々に示されたのである。この南無阿弥陀仏という名号は、我々の言語活動において使われる言葉を超越した、本来言葉に出来ないものを言葉にしたものである。すなわち、南無阿弥陀仏という名号は、それ自体が真実と不一不異なのである。

 ここで、本願と名号と我々の関係を、喩でもって示すならば、以下のようになる。

一如の世界は我々凡夫には見えない世界であり、ちょうど風のようなものである。そして、風が木々の葉を揺らすように、一如の風が木々の葉を揺らしている。この時、この木々の葉の揺れは、風が静的なものではなく、動的なものであることを示している。そして、その木々の葉の揺れが阿弥陀如来の本願であり、常にこのことを知らしめようとしている木々の葉の揺れの音、それが名号である。この時、我々は木々の葉の揺れ、あるいは木々の葉の揺れの音を、あれこれと分析した上で、今ここに起きていることを認識しようとはしない。揺れ、音そのものに風を知るのである。それは揺れ、音は風と不一不異だからである。以上のように、本願、名号も一如と不一不異である。

 

 

(2018/01/19変更)