次のような発言を最近目にした。それは、

「東日本大震災は、仏様が明日の私の姿を見せてくださっているということ。」

このような見方は、「震災は仏様の慈悲の現れ」ということである。このような発言をする人、及びこのような発言に共感する人は、このような発言を「震災を他人事として捉えてはいけない」という視点からの発言と認識しているようだが、いったい、彼らは本当に被災者の気持ちを考えたことがあるのだろうか。他人事としてはいけない、と考える前に、しっかりと他人の事を考えなければいけない。辛い思いをし、「なぜ自分たちはこのような目に遭わなければいけないのか。」と、日々、自問している人たちに、震災を「仏様が私に、明日の私の姿を見せてくれたもの」という見方で捉えるならば、被災した人たちにとって、仏様はいらぬ存在でしかない。被災者からすれば、「なぜ仏は、あなたにではなく、この私に今回の震災を経験させたのか。」と思うであろう。本当に他人事として捉えない捉え方は、つまり、自分のこととしての捉え方は、自分の子どもたちが被災地で被災しているとしたら、どのような事を自分はするであろうか、ということを考え、実際にそのことを実行することである。かつて、戸羽陸前高田市長が言った言葉、「被災者は24時間被災者である。」という言葉を噛みしめるべきである。被災者にとっては、「明日の私」などとのんきなことは言っていられないのである。

また、このような見方は、神様がこの世の主であるとする考え方と類似した世界観である。しかし、仏教における世界観は縁起に基づくものであり、創造主を立てることはない。確かに、阿弥陀如来は一神教における神のような存在に見られるかもしれないが、阿弥陀如来はどこまでも仏教における真理の現れであり、この世の創造主ではないのである。

 

さて、確かに私たちは被災から世の無常を知り、己の小ささを知ることにはなる。しかし、震災は阿弥陀如来の慈悲の働きが原因となって生じたものではないのである。震災と阿弥陀如来の慈悲の関係は、

「震災にも阿弥陀如来の慈悲は及んでいる。」

という見方で捉えるべきである。この世の出来事は、阿弥陀如来の慈悲の中で起きてはいるが、物事は阿弥陀如来の慈悲が原因となって起きているのではない。阿弥陀如来の慈悲とは、本願の働きであり、本願の働きとは縁起の働きである。そして縁起の働きとは「物事の関係性(原因によって結果があるということ)を生み出す働き」であり、その働きは、「私たちの我執(自己中心性)を照らし出し、そして打ち破る働き」でもある。そのような働きで満たされた世界において、物事は原因によって生じ、原因によって滅している。したがって、私たちの我執(自己中心性)を照らし出し、そして打ち破るための本願は、それぞれの物事に及んではいるが、それらの原因になっているのではないのである。

 

これを水槽の中の金魚に例えれば、水槽の中の金魚は、水が張られた水槽の中で餌をもらいながら生きている。水槽の中の水は、水槽の中で行き渡っていない箇所はなく、水槽全体に行き渡っている。さらにその水は、金魚や金魚の餌にも行き渡っている。そしてその水があるおかげで、餌は水中の中に漂うことが出来るが、その水によって金魚に餌が与えられているわけではないのである。このとき、水槽の中の水とは阿弥陀如来の本願(慈悲)を指し、金魚は私たちであり、餌は物事の例えである。